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人間・豊臣秀吉

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人間・豊臣秀吉

人間・豊臣秀吉

2024/04/12

取材

弊社では定期的に各地の史跡、名称を取材し、その場にまつわる史実や歴史上の人物にスポットをあて「人間同士のおりなしあい」や「人柄」に焦点をおき「人の世」の真髄を分析し、記事にしています。

今回は「豊臣秀吉」にスポットをあててみました。

タイトル豊臣秀吉の年表

天下人への道

  • 1537年 尾張国愛知郡にて誕生
  • 1551年 今川義元の家臣松下之網に仕官
  • 1 
  • 554年 織田信長に仕官
  • 1561年 浅野長勝の養女(高台院、ねね)と結婚
  • 1563年 普請奉行となって清州城修築
  • 1566年 美濃に進み墨俣の築砦に著功をたつ
  • 1573年 小谷城の戦い・信長、長嶋一揆を攻撃。秀吉、浅井氏攻略の巧により、その所領二十二万石を与えられ、小谷城主となる。このころより羽柴筑前守秀吉と名乗る。
  • 1574年 3月 今浜(現在の長浜)に築城する。
  • 1582年 6月2日本能寺の変にて信長自刃する。高松城攻め中の秀吉は毛利氏と和睦。6月13日秀吉は山崎の合戦で明智光秀を破る。6月27日清須会城に諸将が会して信長の後継と遺領配分を決める。
  • 1583年 4月に賤ケ岳の合戦で柴田勝家を破る(秀吉の覇権確立)。6月大阪城に入る。8月秀吉は大阪城の大修築に着手、伊勢の滝川一益が秀吉におりる。
  • 1584年 小牧・長久手の戦い(3月~11月)秀吉、徳川家康と戦う。この年から検知にとりかかる。そして、12月に秀吉は家康と和を約す。
  • 1585年 3月 根来・雑賀の一揆を従圧。7月に秀吉は関白となる。この年四国・北陸・中部地方を平定。
  • 1586年 1月 家康、秀吉に臣従を誓う。大阪城石垣工事の石運び捷を出す。5月家康が秀吉の妹(南明院)をめとる。秀吉、太政大臣となり豊臣姓を授かる。この年、聚楽第の築城開始。

天下人となるまで

天下を取るまでの秀吉の人生は「攻」です。

  • 貧しい農民出身の秀吉にとって、最初の目標は武士として取り立てられて、出世すること。
  • 続いて、天下統一の途上で明智光秀に弑逆された主君、織田信長の仇を討つ覚悟を決めた時
  • 自分が天下人になるという目標に変化していきます。
  • この時期の秀吉にとって、目標は単純明快な一本道だったため、その性格も非常に分かりやすいものでした。

冷静な判断力

身分制度が厳しかった当時の社会。
農民出身という、マイナスからの出発ともいえる秀吉です。
まず成し遂げないといけないことは、武士として取り立ててもらえるように、自分に注目してもらうことでした。
「目立ちたがり屋だった。」
と、安易に輪を論じてしまっては、秀吉が群を抜いて出世していく理由にはなりません。
主君、織田信長の草履を、冬の寒い時期に懐で温めておいて、差し出したエピソードはあまりに有名です。
しかし、それは
アピールする人物を見極め
どのようにしたら嫌味がなく
好印象で気にかけてもらえるか
冷静に判断し、狙っていたのでしょう。

謙虚さからのカリスマ性

秀吉が、人心掌握の術に長けていたはよくしられています。
それは味方のみならず、敵対していた人物をも含めて発揮されているのです。
相手の立場に立って、その気持ちに寄り添い謙虚に接する ことのできる指導者は抜群のカリスマ性を発揮します。
生まれながらにして苦労人であった秀吉にとって
それを素直に表現することは当たり前の行為だったのかもしれません。
周囲の人々、特に自分にはない優れた能力を有している人物は
大きな目標を成し遂げるためには必要不可欠な存在なのだということを、骨身にしみて理解していたのでしょう。

先見性と創造性

秀吉は、戦いによって死者をだすことを嫌っていた といわれています。
その根底には大名が争乱を起こすたびに多くの人が死んでいく様を
農民という最もちからのない立場から、いやというほど見て経験してきたということがあったでしょう。
秀吉はやむを得ない場合を除いて、
力攻めを押し通すことは避け、水攻めや兵糧攻め を用いました。
この戦術をとる限り味方に死者はでず、
相手方も頑強に抵抗しなければ、首領が責任をとって切腹をすることで残りの者は死なずに済むからです。
信長の命を受けて中国地方へ遠征に来ていた秀吉は、堤防を作り備中高松城を水で包囲しました。
補給路を断つ ことで相手側の動揺を誘い和睦へと導いたのです。
死者が増えれば増えるほど、国力が衰退します。
生き残った人々は、以後の国づくりにとって貴重な人材となっていくと秀吉はみていたのではないでしょうか。

天下人となった後

天下人となった後の秀吉の人生は「守」です。
守るものが多くなると、人間は保守的になり、自分のことしか考えなくなってしまう傾向があります。
秀吉の晩年を見てみると、確かにそのように変わっていったと思わせる事例が多々起こっているのです。

恐れと猜疑心

お市の方の娘「お茶々」を側室に迎えた秀吉は、ようやく念願の男子「鶴松}を得ます。
しかし鶴松は死去してしまったため、関白の位を甥の英次に譲ることになります。
後年、次子「秀頼」が生まれると、後継者を秀頼にしたいという欲求が生まれ、冷静な判断力を奪ってしまうのです。
秀頼誕生から2年後、秀次は突然、謀反の疑いをかけられ切腹へと追い込まれてしまいました。
しかも秀吉はそれだけでは満足せず、老若男女問わず一族郎党を根絶やしにかかりました。
これは秀次の死を憂い、恨みを抱いた一族が反旗を翻し、争乱の種になるかもしれないという恐れと猜疑心からだったのでしょう。
当時、このようなことが古今東西よくありました。
幼い子供まで含めた39名全員が斬首されたのですから、人を大切にしてきた秀吉のイメージとは大きく変化したものと言えます。
しかし実際はそんな単純なものはなかったのではないのでしょうか。
そこにはようやく争乱のない世にできたのに、秀次と秀頼が自分の死後に対峙し、再び世が戦乱に戻ってしまうのではないか という恐れから、徹底的に後顧の憂いをなくすためにうごいたのかもしれません。

豊臣秀吉 辞世の句

「露と落ち露と消えし 我が身かな浪花の事は 夢のまた夢」
現代文に訳すなら「天下を統一した自分も、朝露のように生まれ、そして朝露のように儚く死んでいく。」といったところでしょうか。」
豊臣秀吉が死を前にした時、彼の頭の中を去来したのはなんだったのでしょう。この豊臣秀吉の最後の言葉である辞世の句は、皆さんの心にどう響きますか?

豊臣秀吉 川柳

「鳴かぬなら鳴かせてみせようホトトギス」
秀吉は、農民出身にも関わらず、異例のスピード出世を人物、信長に仕え始めたばかりの身分の低い頃、信長の草履を懐に入れて暖め、評価を得ていった事は有名な話。愛嬌があり、頭が良く、自信家・野心家であったといわれている。その結果、「鳴かせて見せよう」と表現されている。

豊国神社

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1598年伏見城で生涯を終えた豊臣秀吉は自身の遺言により、比叡山から稲荷山まで続く東山連峰の秀峰「阿弥陀ケ峰」に埋葬されました。

後に後陽成天皇により「豊国大明神」の神号を与えられ、

「豊国社(とよくにのやしろ)」が建立されました。日本最初の権現造りで壮麗0にして雄大な社殿であったそうですが、1615年の大阪夏の陣後、徳川幕府によって取り壊されしまいました。

それから200年以上の歳月を経て、明治天皇の御沙汰により再興されることとなりました。きっかけとなったのは、全国統一を成し遂げたにも関わらず幕府を開かなかった秀吉の「尊王の精神」。現在の豊国神社は秀吉の精神によって蘇ったといえます。

豊臣秀吉が眠る京都・阿弥陀ケ峰の山頂「豊国廟」

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豊国廟は、天下人・豊臣秀吉のお墓。

京都東山三十六峰の一つ、阿弥陀ケ峰の489段の石段を登り切った頂上にあります。

慶長3年(1598年)豊臣秀吉は伏見城で死去。遺体は火葬せずに城内に安置されました。

慶長4年(1599年)豊国廟の創建。

遺言により東山の阿弥陀ケ峰山頂に埋葬され、その麓の太閤担に廟所が建立されました。境内域30万坪を誇る壮麗かつ壮大な廟所は「豊国社」と命名され、毎年4月と8月に行われる豊国祭には朝廷より勅使が遣わされ、諸大名の参拝や寄進が相次いだといいます。

慶長20年(1615年)に豊臣家が滅亡すると徳川家康の意向により神号は剥奪、神社も廃絶・破却されました。秀吉の遺体は山頂に残され霊屋は修理禁止とされ、江戸時代を通して再興が認められませんでした。

明治元年(1868年)明治天皇が「秀吉は、天下統一を果たしたが、幕府を作らず天皇を尊重した人物」であると再評価し豊国神社を再興。

明治31年(1898年)豊国廟が再建。

豊太閤三百年祭に合わせて阿弥陀ケ峰山頂の荒廃していた陵墓に新しく石造五重塔を建立。この工事の際、土中から素焼きの壺に入った秀吉の遺骸とおぼしきものが発見され、丁重に再埋葬されたといいます。

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