株式会社DREAMFACTORY

取材

お問い合わせはこちら

取材

取材

2022/03/14

弊社では毎月各地の史跡、名称を取材し、その場所にまつわる史実や歴史上の人物にスポットをあて「人間同士のおりなしあい」や「人柄」に焦点をおき「人の世」の真髄を分析し、記事にしています。

今回は「坂本 龍馬」にスポットをあててみました。

 

 

 

 

 

 

 

寺田屋

 

 

 

慶応2年1月23日(1866年3月9日)、坂本龍馬と三吉慎蔵が伏見の寺田屋に止宿中、伏見奉行所の捕り方に踏み込まれる、寺田屋襲撃事件が起こりました。薩長同盟締結直後の出来事出来事でした。
伏見の寺田屋は、江戸時代初めからの船宿といわれます。伏見は京と大坂を結ぶ舟運で栄え、大阪から淀川を遡ってきた過書船が伏見港で荷揚げし、荷物を高瀬船に積み替えて京都市中へ運ぶ中継地点でした。また過書船の中で最小の三十石船は旅人専用の船で、定員28名、水夫4人が乗り込んで、伏見と大坂八軒家間を1日2回、昼と夜に運航していました。その船着場となったのが伏見の京橋で、船宿や旅籠が39軒も建ち並んでいたといいます。中でも大きな宿が6つあり、その一つが寺田屋でした。寺田屋は薩摩藩の指定宿でもあり、大いに繁盛しましたが、幕末に2度、大きな事件の舞台となります。一つが文久2年(1862)春の、薩摩藩国父・島津久光の率兵上京の際に起きた、薩摩藩士の同士討ちである「寺田屋事件」です。9人の藩士がここで命を落としました。当時、寺田屋にはお登勢という名物女将がいて、亭主を失って後、一人で宿を取り仕切っていたといいます。非常に面倒見がよく捨て子を育てたり、同士たちを匿ったりもしていました。坂本龍馬もお登勢を「おかあ」と親しみを込めて呼んだといいます。
龍馬は元治元年(1864)8月頃、お登勢に頼んで、恋仲の娘を宿に置いてもらいました。娘の名前は龍。京都の医者・楢崎将作の娘で、将作の死後、一家離散の憂き目にあっていたところ、龍馬と知り合ったのです。義侠心に富むお登勢はこれを快諾しました。お龍は住み込みの仲居として寺田屋で働くことになり、やがて龍馬を絶体絶命の危機から救うことになります。
慶応2年(1866)1月22日、龍馬は京都で幕末史の一つのエポックとなる大仕事を成し遂げました。犬猿の仲の薩摩藩と長州藩の手を組ませる「薩長同盟」の締結です。翌23日、龍馬は伏見の寺田屋に戻り、成功を祝って、彼の護衛役である長府藩士・三吉慎蔵やお龍らと、2階の部屋で八つ半(午前2時頃)まで酒を飲み語らっていました。
異変に気づいたのは、お龍です。小宴も果て、風呂に入ろうとしていたお龍が、窓の外を見ると、宿を多数の堤灯が囲んでいます。即座に彼女は着物もまとわずに2階に駆け上がり、捕り方に囲まれていることを龍馬に報せました。当時、龍馬は要注意人物として幕府方からマークされており、新選組や京都見廻組、奉行所から狙われていたのです。
ほどなく、奉行所の捕り方が寺田屋に踏み込み、龍馬らのいる2階の座敷に向かいました。灯を消した座敷を、捕り方の龕灯提灯が照らす中、死闘が始まります。部屋に踏み込んできた捕り方龍馬は短銃で、三吉は手槍で応戦、龍馬は左手を負傷しました。捕り方も死傷者が出て怯んだところ、二人は闇に紛れて脱出。目指したのは、1㎞ほど北にある薩摩藩伏見屋敷でした。
寺田屋の200m北西に芸州浅野屋敷があり、その西は濠川に面しています。龍馬と三吉は川を泳いで渡り、対岸の材木小屋に身を潜めます。材木小屋にたどり着いた龍馬は、出血と疲労で身動きが出来なくなりました。三吉はすぐに発見されるだろうから、潔く切腹しようと言いますが、龍馬はそれを制し、一人で薩摩屋敷向かうよう勧めます。三吉は承知し、龍馬を残して救援を求めるべく北上します。
空が少し白み始めた頃、三吉がようやく薩摩屋敷に駆け込むと、薩摩屋敷にはすでに危急が伝わっており、救援の手勢が出発していました。伝えたのは、お龍です。彼女は寺田屋の2階に駆け上がり、龍馬に急を告げると、自分の判断で外に飛び出し、薩摩屋敷に駆けていたのです。見事な機転でした。
薩摩屋敷では留守居役の大山彦八が救援態勢を整えて、2人の行方を捜しており、三吉から龍馬の居場所を聞くと、藩の旗を掲げた船を仕立てて川を下り、龍馬を救出します。ちなみに大山は大山弥助(巌)長兄で、西郷𠮷之助(隆盛)の従兄弟でした。
薩摩屋敷に保護された龍馬は、数日間、お龍の手厚い看護を受けて過ごし、やがて西郷のはからいで、3人は京都の薩摩屋敷へと移ります。そしてこの事件をきっかけとして、龍馬は命の恩人のお龍を妻に娶りました。

 

 

酢屋

 

 

 

長崎屋や下関などを中心に活動していた龍馬が、大政奉還の道筋をつけるためにようやく京(現:京都)に戻ってきたのが、慶応3(1867)年6月。その時に身を寄せたのが、材木商の「酢屋」でした。この頃の酢屋は、材木屋だけでなく、高瀬川で運送業も営んでいました。当時の高瀬川は、京(現:京都)の中心部と伏見を結んでいて、酢屋の前まで高瀬舟が出入りしていたので、伏見や大坂(現:大阪)との連絡に都合がよかったようです。また名藩の藩邸が近くにあり、折衝に便利だったので龍馬はここ酢屋を選んだようです。
龍馬が酢屋にいた頃は、「才谷梅太郎(さいだに うめたろう)」という変名を使っていて、酢屋の2階の1室で住んでいたんですね。
そして、この部屋で龍馬は慶応3(1867)年6月24日に故郷の乙女(おとめ)姉宛に、この酢屋にいる旨など近況を伝える、約5mもの長い手紙を書いたそうです。
『今日も忙しき故、蕯州屋敷へ参りかけ、朝六ツ時頃よりこの文したためました。当時私八京都三條通り河原町1丁下る車通酢屋に宿申し候。
~~~ 中略 ~~~
私一人にて五百人七百人の人をひきいて天下の御為するより二十四万石をひきいて天下国家の御為居たすがはなはだよろしく、おそれながらこれらの所には、乙様(乙女)の御心には、少し、心が及ぶまいかと存じ候。』
など、書かれていたようです。残念ながら、その手紙が龍馬から乙女姉の最後の手紙になってしまいました。
龍馬は酢屋の龍馬がいた部屋の2階出格子から、荷車が通る町をよく眺めていたりピストルの試し打ちなどもしたそうです。今は、酢屋の向かいには飲食店などがならんでいますが、龍馬がいた当時は、高瀬川の舟入で、船の荷揚げをする場所だったので、そこめがけてピストルを撃っていたのかもしれません。
そして酢屋は、龍馬が定宿として利用しただけではなく、龍馬が隊長として率いる結社「海援隊」の京都本部としても使われていました。
話は、龍馬が暗殺された直後の事になりますが海援隊隊士、陸奥陽之助(むつ ようのすけ)(陸奥宗密 むつ むねみつ)等が、龍馬と中岡慎太郎(なかおか 史たろう)を殺害したのは紀州藩が黒幕と思い込み、敵討ちだと襲撃した「天満屋事件」の打ち合わせを行ったのも酢屋だったそうです。

 

 

近江屋

 

 

 

「近江屋事件」とは大政奉還から約1ヶ月後の1867年12月10日に起こり、坂本龍馬と中岡慎太郎、そして坂本龍馬の護衛兼従僕だった元力士の山田藤吉の3人が何者かに襲撃され、命を落とした事件です。
近江屋は、京都の河原通似合った醤油商で、営んでいたのは現在の四条河原町一帯の土地を所有していた豪商の井口家。当主の井口新助は土佐藩の御用達となり、岩崎弥太郎をはじめとする土佐藩士と繋がりが深かったことから、方々から狙われる身であった坂本龍馬を匿っていたのです。
当時は、坂本龍馬が暗殺の対象になっているという風間が広がっていて、元新選組の御陵衛士である伊東甲子太郎と藤堂平助が近江屋を訪ねて、新選組と京都見廻組が命を狙っていることを告げたり、薩摩藩の吉井幸軸が土佐藩邸に身を隠すように勧めたりしています。
しかし、坂本龍馬は近江屋に留まりました。その理由については、土佐藩邸に入るのは自身がもともと脱藩浪士だったため憚りがあるとして遠慮したためだといわれています。
また近江屋と土佐藩邸は河原町通を挟んで真向かいにあり、いざとなればすぐにでも救援に駆けつけられる距離だったことも、近江屋に留まった理由のひとつです。
襲撃当日の夜、刺客たちは近江屋を訪れ、対応に出た山田藤吉に対し、十津川郷土を名乗って坂本龍馬への取次ぎを依頼します。名刺をもらった山田藤吉が、坂本龍馬のもとに持っていこうと階段に向かったことで、刺客たちは坂本龍馬が近江屋内にいることを確信し、背後から山田藤吉を斬りりました。
坂本龍馬は1撃目で前頭部を斬られ、床の間に置いていた刀を取ろうと振り返ったところ2撃目を受け、右の肩先から左の背中にかけて斬られます。刀を取るものの抜くことができず、鞘のまま3撃目を受けますが、鞘ごと刀を削られ、前頭部に致命傷を負いました。
一方の中岡慎太郎も1撃目で後頭部を斬られ、刀を抜く余裕もなく鞘のまま応戦しますが、後頭部の傷が重く、満足に動くこともできないまま両手両足、臀部を斬られ、倒れます。倒れたまま中岡慎太郎が死んだふりをしていると、やがて刺客は「もうよい、もうよい」と叫んで引き上げていきました。
この時、近江屋の主人である井口新助は1階の奥の間にいて、土佐藩邸に報せに向かいましが、見張りがいたために引き返し、土佐藩邸の裏口に回って時間を浪費してしまいます。
やっと報せを受けた土佐藩士たちが近江屋に駆け着いたときには、すでに襲撃者の姿はなく、坂本龍馬は亡くなっていました。中岡慎太郎と山田藤吉も翌々日の夕刻には亡くなります。
襲撃があった12月10日は、旧暦でいうと11月15日。くしくも、坂本龍馬の生まれた日でした。

 

 

京都霊山護国神社

 

 

 

龍馬のお墓は、京都府東山区の京都霊山護国神社(きょうとりょうぜんごこくじんじゃ)にあります。高知県の護国神社や東京都の靖国神社のも祀られているものの、遺骨は京都霊山護国神社に埋葬されているようです。また、ここには横須賀にお墓がある妻・お龍も分骨されています。現在まで小説・映画・テレビドラマなどさまざまな作品で取り上げられるなど、日本人にとって龍馬は魅力的な歴史上の人物。お墓もさぞ立派だろうと思いきや、意外と質素なものになっています。それでも実際にお墓参りができるため、毎年訪れる龍馬ファンが多いようです。

 


坂本龍馬の生涯

 

 

 

坂本龍馬は1835年(天保6年)11月15日に現在の高知県にあたる土佐藩で、6人きょうだいの末っ子として誕生しました。
1853年、14歳になった坂本龍馬は小栗流の武術を学び始め、さらに武芸を極めるために江戸に修行に出立します。その年の6月アメリカ海軍のペリーが軍艦4隻率いて浦賀沖に来航します。江戸時代末期にあった日本は黒船を目の当たりにし、攘夷思想が広がっていきます。若き坂本龍馬もその影響を受けたひとりです。
1861年、日本各地で尊王攘夷運動が高まる中、土佐藩の出身で江戸留学中であった武市瑞山は土佐藩王党を結成。長州藩の尊王攘夷運動の中心にいた久坂玄瑞に刺激を受け、1862年2月、坂本龍馬は脱藩を決意します。
坂本龍馬は勝海舟とともに海軍操練所を設立したり、勝海舟の紹介によって薩摩藩の西郷隆盛と対面し、敵対する薩摩と長州の関係改善を図ったりと奔します。しかし、1864年頃から、再び日本の情勢は動きます。幕府は新選組などを使って京都に集う尊王攘夷の志士たちを弾圧し始めたのです。その影響から海軍操練所も閉鎖され、勝海舟は贄居を命じられました。
海軍操練所も廃止となる中、それでも坂本龍馬薩摩へ向かい、薩摩の地で日本初の商社「亀山社中」を設立します。亀山社中は船で運送を行いながら利益を上げ、その利益を倒幕運動に活かすという、当時としては画期的な考え方により設立された組織でした。自由な思想の持ち主であった坂本龍馬は、経済の重要性にいち早く気づいていました。薩摩藩の西郷隆盛の助けを借りて、貿易を行うために海外から軍艦を買い求め、日本初の亀山社中という株式会社の設立に至ります。
坂本龍馬は幕府に敵対する薩摩藩と長州藩の同盟を画策する黒幕として、幕府から危険視されていたのです。そして、坂本龍馬が寺田屋にいる情報をつかんだ状見奉行所は、1866年1月に寺田屋を襲撃します。
坂本龍馬は忙しい日々の合間を縫うかのように、1864年の夏頃、医師の娘であったお龍(りゅう)と結婚しています。気丈なお龍のことを龍馬は姉に「まことに面白き女」と手紙に書き送りました。寺田屋で襲撃を受け、傷を負った坂本龍馬を妻のお龍は献身的に看病しました。その後、坂本龍馬は傷の療養を兼ねて、お龍と薩摩の霧島山へ新婚旅行に出かけます。この旅行が日本の新婚旅行の始まりといわれているそうです。
1867年、武力での倒幕を狙う長州藩と薩摩藩に対して、坂本龍馬は武力衝突を避ける大政奉還の計画を企て、土佐藩主から江戸幕府に進言してもらうよう、奔します。
しかし、その結果を坂本龍馬が見ることはできませんでした。11月15日、潜伏していた京都四条河原町の近江屋で中岡慎太郎との会談中に襲撃を受け、不慮の死を遂げたからです。この近江屋事件により、坂本龍馬は31年という短い生涯を終えます。

 

坂本龍馬の人柄

 

さて、坂本龍馬という人はどういう人だったのでしょうか。
その素顔には大変興味を持つところですよね。

「おおらかで飄々とした人間」 「手賢く物事を計算し、合理的に物事を考える知性人」 また、龍馬と関わりを持った長州藩士・三古慎蔵という人は 龍馬の人物像について「過激なことを言うことはなく、声高に意見を口にすることもない。極めて大人しく温和な人だ」と評しています。
その他、のちに明治政府の官僚となる田中光顕からは、「豪放磊落(度量が大きく、細かいことを気にしないこと)な性格」と評しています。
そして、坂本龍馬は周囲から好かれただけでなく、多くの人物を好み、愛し、交流したという記録が残っています。
後の初代総理大臣となる伊藤博文からも「どこへ行こうともその場に溶け込める雰囲気を持った人物」というのが、最も端的な龍馬の人物像ではないかと思えます。
そして、同郷の土佐藩時代に親しく交流のあった武市は 龍馬のことを「度量が大きく、考えてることを余人には掴ませない人物」と評価していました。


 

 

 

坂本龍馬の功績その1「海援隊」
江戸幕府に仕える臣下『勝海舟』と出会い 勝の私塾である「神戸海軍操練所」の設立に参加します。後に海軍操練所は閉鎖となりますが、海軍の重要性に目覚めた龍馬は、長崎に「亀山社中」、後の「海援隊」を作ります。海援隊は貿易、海運などから得る利益を持って、国事に奔走した政治集団です。近代的な株式会社に類似した組織、商社活動としても評価されています。海援隊は西国諸藩、特に薩長両藩のために、物資の輸送や西洋の武器・船舶の輸入などを行い、薩長の討幕準備に大きな役割を果たします。
坂本龍馬の功績その2「薩長同盟」
幕末において薩摩(現在の鹿児島県)と長州(現在の山口県)は、天下の雄藩(経済力があり、勢力の強い有力藩のこと)でした。しかし、両藩は非常に仲が悪く、京都で起こった合戦(禁門の変)では敵同士として戦うほどになりました。世間では討幕の機運が高まってきたのですが、まだまだ幕府の軍事力は強大でした。そんな中、誰もが薩長が手を組めば、討幕が出来るのではないかと思っていました。しかし、薩長は犬猿の仲。誰もがそんなことが出来るとは思っていませんでした。そこで坂本龍馬が薩の西郷隆盛、長の桂小五郎を説得します。その根拠は感情ではなく、利害を一致させることでした。つまり、長は討幕のための銃器が欲しかった。薩は長を隠れ蓑にして討幕の準備を進めたかった。それをうまく使って龍馬が薩長同盟を締結させたのです。薩長同盟を締結により、討幕派は薩長を中心として勢いを得て、討幕の動きが加速していくのです。
坂本龍馬の功績その3 「大政奉還」
大政奉還とは、江戸幕府が政権を朝廷に返上したことです。大政奉還の直前、薩長を中心とした革命戦争を起こそうとしている討幕派に対し、龍馬は平和裏に政権移行をしたい非戦論者でした。龍馬は土佐藩の参政(藩行政の最高責任者)後藤象二郎に大政奉還の案を授けます。龍馬の大政奉還案に大いに感銘を受けた後藤は、将軍・徳川慶喜(よしのぶ)に大政奉還を建白(政府や上役などに自分の意見を申し立てること)します。徳川慶喜は大政奉還を受け入れ、これによって江戸幕府はなくなり、鎌倉以来約700年続いてきた武家政治は終了しました。朝廷による新しい政治が始まったのです。
坂本龍馬の功績その4「船中八策」
龍馬は上京する途中の船中にて、同乗した後藤象二郎に8カ条の新しい国家構想を示します。それは政権を幕府から朝廷に奉還し、朝廷(天皇)のもとに大名、および新たに登用された人材(議員)によって、様々なことを公の議論により決め、開国、法律制定、軍事力設置、貨幣統一などによって、国家の体制を整えようとした者でした。その後、大政奉還により政権がが朝廷に移ったとはいえ、実際にどの様に政治を運営すればよいのか、どんな国家にすればよいのか、明確な考えが ある人は誰もいませんでした。そんな状況の中で、龍馬の船中八策は新国家体制の基本方針とされ、明治維新政府に受け継がれて「五箇条の御誓文」へつながってゆくのです。
坂本龍馬は何を目指していたのか?
坂本龍馬は上記にも述べさせていただいた通り 四国の土佐藩の脱藩者の浪人でありながら 歴史上、知らない人はいないのではないかと思うぐらいの功績を残した人物です。
坂本龍馬を題材にした多くの創作物でも共通して見られるところでは、まずは「自由人」のイメージが立つと思います。
アメリカでは一般民衆が大統領を選び、大統領は民衆の生活の心配をするという国に憧れていました。身分制度や藩や幕府にしばられることがない、公平な世の中を望んでいました。龍馬は「世界の海援隊」により世界中と貿易が出来るような、自由な国家を理想としたのです。その為には、貿易を独占し、人々に自由を許さない幕府がなくなればいいや、と思ったのです。龍馬にとって、討幕は自分の理想を形にするひとつの手段でしかなかったのです。幕末から維新に生きた人々の中で、龍馬の他には誰ひとり、このような人物はいませんでした。だからこそ、坂本龍馬は「維新史の奇襲」といわれるのです。

 

----------------------------------------------------------------------
株式会社DREAMFACTORY
兵庫県神戸市東灘区向洋町中1-4-128-1104
イーストコート4番街8番館
電話番号 : 078-855-5029
FAX番号 : 078-855-5059


----------------------------------------------------------------------

当店でご利用いただける電子決済のご案内

下記よりお選びいただけます。